今日のどうでもいい日記

朝7時に家を出て10時に帰ってくる生活が最近続いててしんどい。最近自分の肌をシャーペンで削ることにハマってる。

皮膚がゴリゴリ削れてて赤く線になっていくのがマイクラの整地みたいで楽しいのでおすすめ。

つい先日に日常の連載再開がアナウンスされましたね。非常に良き。弟も喜んでた。ハンターハンターにも見習ってほしい。

学校の日記

7限が終わってからずっと化学をやっていた。明日のテストに備えている。

リードαのDまでやったがぶっちゃけあのへんの問題は出てきたら捨てるしかない。

混合物の滴定とか出てきたら捨てるしかない。

最近の生きる糧と自殺の権利

最近はまじでマギレコとプロセかしかしてない。初音ミクの消失がHardまでしかクリアできなくて萎えてる。

ハッピーシンセサイザならエキスパートまでクリアできるようになった。最近はもっぱらシャルルを練習中。

あとはTwitterだな。Twitterが人生の糧になるか否かという問題では9割が否と答えるだろうし自分も否と思うが。

ぶっちゃけなにかコードを書くわけでもなく、社会貢献も何もせず何かを生産するわけでもなく生きている人間に価値はあるのかと考えてしまう。

どうして日本や多くの国は安楽死や自殺を権利として認めようとしないのか。個人的な憶測に過ぎないが国益にならないからだと思う。

国からしたら国民は税金を納税してくるものであり、国民を増やす「機械」とそこまで大差はないわけだ。

その「機械」に「仕事(生きること)をやめたい」といって国に利益はない。

日本国憲法ですでに住む場所とかは自由が保証されてるけど、憲法で規定されてない上に国益にもならない、挙句の果てには大論争を巻き起こすであろう、どんな問題が起きるかわからない。そんな安楽死の制度などの制定のために国が税金を使うメリットがない。

だからどの国も安楽死を制度化しようとしない(もしすでに制度化されてる国があったらぜひとも教えてほしい。)

ただひたすら毎日食って寝て、起きたらTwitterを開き、ひたすらなんでするのかもわからない勉強をして帰ってきて寝る。

最近は趣味のために食費を主に削ってるからな。何のために生きてるのかいよいよわからん。

別に何か鬱とかそういうわけではない。思いっきり元気だし学校でも「学校嫌い」なんて素振りを見せずに過ごせているはずだ。

高校は義務教育じゃないし、すでに俺の親の教育を受けさせる義務は果たしきってるので、それで良いと思ってる。

生活保護最高

自分は完全に「利己主義」なので、他人の幸せとかそんなことは考えてない。

でも別に集団生活とかで協力をしたり、他人とコミュニケーションをとるのは結果的に自分にメリットがあるから行う。

逆に言えば会話をしても一切メリットがないと思っているやつとは一切関わらない。時間がもったいない。

そんな前提で上の画像を見ると、労働をするメリットが少ないように感じる。

もちろんたくさんの給与をもらえれば、それだけ自分の自由ができるはずだが、現実はそんなに甘くない。

これはぶっちゃけ資本主義と基本的人権が共存した結果のバグだと思っている。日本の問題ではない。

日本の問題点

「大きな政府」か「小さな政府」かどちらが良いかという問題は議論をする必要があるし、どっちが悪いということもない。

一番悪いのはどっちがいいかを決めず、中途半端なままにして税金を無駄遣いすることだ。

年金制度はもはや破綻しかけている。今10代の我々が年金を享受できるまでこの制度が生き続けられるだろうか。

個人的にはNoだと思っている。詳しく勉強したわけではないので専門家でYesという人がいたら理由を聞きたい。

だったらこの悪の制度はさっさと廃止するべきだ。そもそもの根本的な問題は年金制度ではなく、少子高齢化と物価の上昇と経済格差だと思うのだが。

今の日本の銀行と政府の法律上、アベノミクスが失敗した今この経済を解決するのは相当難しいのではないだろうか。

せっかくの回復のチャンスだったオリンピックは某コロナで完全に消え去ったし、結果的に唯一の救いになるかもしれなかった元安倍総理が辞任する結果に終わった。

今度に選挙がまたあるが、もし政権交代でもしたらいよいよ回復は不可能になるだろう。

今はまだバブル時代の残りカスで国際社会で死に絶えながらも生きているが、10年後には発展途上国扱いされてもおかしくないと思う。

日本人は国民性的に保守的な側面があると思っているので、そういう意味ではGHQの作戦は本当にうまく行ったと思う。

21世紀になってもその影響が残っている上に、そのスキを突いた在日の影響も相まって憲法改正ができなくなっている。

この状況を打開して「正しい日本人」による本来の正しい路線に戻せる政治家が現れるのか。多分無理だろうな。

人間の生きる価値

昨日もいったと思うけど、俺は「快楽主義者」であり「トランスヒューマニスト」だ。

言い方が正しいかわからないが、自分を第一で考えて他人の利益などを考えていないという意味では「利己主義」でもあるだろう。

自分の生き方を明確に定義するのは大事だと思う。何かに迷ったときにそれを基準にできる。ある意味それは宗教に近いのかもしれない。

生物学的に言えば生物の生きる本来の意味は「種の保存と繁栄」だ。これのみを人間の生きる価値であると仮定するのなら、LGBTQや無性別、性欲が一切ない人間や二次元を愛する人間の存在価値はなくなるのか?。

(ただし今の社会の一般論に従えばそんなことは間違っているし、この理論で行くと自分の存在価値も消える。 おれは将来結婚する気もないし、子孫繁栄なんぞ一切考えていない。それにLGBTQだ。)

答えはNoだと思う。人間は生物学、自然学的な観点以外の部分から生きる価値を考えていく必要がある、それは当然だ。

直接的に種の繁栄には参加しなくても、間接的に技術や文化を育み、結果として人類の繁栄に貢献することになる。何かしら経済活動も同様だし、納税を行うことだって結果的にそれにつながる。

でもそれさえ何もしてなかったらどうなるのだろうか。なにかをアウトプットするわけでもない、将来に結婚して子孫を増やす気もない、ただネット上にあるコンテンツを消費して酸素と電気を無駄遣いするだけの生き物、それに存在価値があるのだろうか。

もちろん未来には何があるかわからないから、今はそんな人間でも将来になにかすごいことを成し遂げてノーベル賞をとるかもしれない。そんなことがあればそれは結果的にその人の人生は人類の進化に貢献したわけである。

かといって「生きていればいつか何かを成し遂げて人類に貢献できる」から「生きているだけで価値がある」となるのだろうか。

そうやって考えられる人は素晴らしいと思う、ぜひそれを生きがいにして毎日を過ごしてほしい。俺にはそんな義務感?プレッシャー?を感じながら生きることはしたくないしできないと思う。

むしろ生きていることで地球上にある限りある資源を無駄遣いし、社会全体の「コスト」になりかねない。

だかからこそ、完全に生きる気力を失いなにもしたくない、死にたいという人間は、省エネの観点からみても国が公式に「安楽死」を支援するべきだと思う。

安楽死

英語表現の授業が暇で電子辞書に入っている日本国憲法を読み漁っていた。

それによれば全ての人間には「基本的人権」として「生存権」があり、それは当然の摂理らしい。

どうして人間には生存権があるのに「死ぬ権利」がないのだろうか。

国はどうも、国民は皆家族の団らんの時間を大切にして勉強(仕事)と趣味を両立してそれなりの生活を送っていると考えているらしい。

そもそも安楽死の制度を国が設置したらそれはそれこそその国は終わりだろうな、と矛盾したことも考えている。

安楽死をしたい、自殺をするという理由には様々な要因があるが、その最終的な部分は国や公共機関などの「巨大な組織」のせいのことが多い。

いじめとか虐待なんかはその良い例だし、学校内での人間関係とか、収入不足とか借金とか、そういうことも全部最終的には国である。

理想としては国がそういった問題をすべて解決すれば良いのだが、既存の問題を解決する前に新しい問題がどんどんと吹き出していてその対応に追われているのだから根本的な解決が来るのは何億年後になるだろうかわかったものではない。

安楽死を認めるというのはその政府の力不足を認め、最後の理想郷とも言える死の世界に行くことを許すのと同義である。

なので国全体から見れば安楽死を認めるメリットなんて一切ないのだが、一個人としてはいつか認められることを強く願う。

終わりに

最初は「学校であった出来事」を書こうとしていたらこんな思想の強い内容になってしまった。

まぁこんな内容はFascodeの公式ブログには間違いなく載せられないだろうし、twitterにも載せたらアカウントをBANされるだろうから、ここにしかかけない内容ではある。

ブログ最初は技術的な内容をと考えていたのだがいつの間にか自分の思想というかお気持ち表明するところになってしまっている。

もう少しどうにかならないかなといろいろ考えてみるが、たぶんどうにもならない。